国指定史跡 桶狭間古戦場伝説地
この地は戦いの当時、田楽狭間・舘狭間・田楽の久保・桶狭間と呼ばれ、南は桶狭間山・北は太子ヶ根・東は尾崎山・西は高徳院の山に囲まれた狭間で、「今川義元が本陣を設営し、織田信長が奇襲した桶狭間合戦」があった所です。
昭和12年文化庁が、江戸時代から今川義元本陣跡と戦死場所と言われていた、この地にある史跡を調査、さらに古文書・古地図等を検討し、国指定史跡に指定した場所です。
東海道(国道一号線)の南、池を挟んで100mの所にある松林の中、指定された頃は遺跡群が静かにたたずむ所で、大正天皇御大礼記念碑より南を望むと、建物はほとんど無く道路より低い田んぼ(深田)の先400mに桶狭間山がみえました。
昭和41年に、廻りに池もある湿地のため3m程度の盛り土を行い現在の伝説地に整備されました。
伝説地周辺にある史跡一覧表
史跡にはすべて建立年号・建立者が刻まれています。
1.七石表
七石表は、古戦場伝説地の中で一番古い史跡で、明和8年(1771)12月18日に尾張藩士 人見弥衛門・赤林孫七郎により建立された。
全部で7本あり、全てに「桶峡七石表之一」と彫られ、6本は伝説地内にあり、一号碑には、「今川総介義元戦死所」と刻まれている。二号碑は高徳院墓地内にあり「松井八郎塚云五郎八」と彫られている。
建立された場所は、宝永2年(1705)発行された『塩尻』(国立公文書館蔵)の桶狭間古戦場之図」に描かれている屋形狭間の塚の上に立てられていた。
2.桶狭弔古碑
<<碑に刻まれている戦況の文章のみ抜粋>>
1、永禄3年駿河の今川義元侯が西へと軍を進め、5月19日桶狭間山の北に陣をしいた。織田公奇兵をもって之を襲い義元侯を滅ぼした。
2.今川義元は大軍を率いて尾張に侵入、鷲津・丸根の砦を攻めて陥落させ『明日、朝食する頃には清洲城は取れているだろう』と豪語 した。家臣たちは勝利を祝賀し、陣中で祝い酒が出された。
その時、黒雲が沸き起こり暴風雨となった。
織田軍が攻め込む振動音と鬨の声が背中のほうから聞こえたが、誰も突然襲われると思っておらず、本陣は大混乱となり、格闘するが2500人の死者が出た。
この碑を建立した津島神社の神官 氷室豊永は、この戦いで戦死した今川家の重臣 松井宗信の子孫で、24歳で氷室家に養子に入った。 碑文の内容は、松井家に代々伝わる今川側の「戦いの状況」と思われる。 また、碑を建てるに当たり、この文面と建立場所は尾張藩の初代藩主徳川義直書いた『成功記』と一致しており、尾張藩は正しいと認め、建立を許可した。